第69回日本エッセイスト・クラブ賞

審査報告

 第69回日本エッセイスト・クラブ賞の審査経過を報告いたします。今回は、24名の会員から推薦された作品が25点、出版社33社からの推薦が92点、個人による応募が10点、合計127点の応募がありました。これらのうちから、編著作品、過去作品の復刻版、著者死亡など審査基準に外れた作品を除外し、さらに3月17、18両日の予備審査を経て、対象作品を60点に絞り込みました。この60作品について、11人の審査委員が4回にわたって審査し、6月1日に受賞作品2点が決定いたしました。昨年に続き、今年も審査はコロナ感染の影響を受けました。期間のほとんどが緊急事態宣言にかかってしまったのです。まだ寒さの残る時期だったのですが、窓を開け払った中で審査が続けられました。そんな状況でも、感染者を出すことなく最終審査を終えることができ、審査委員一同、ほっとしている次第です。最終審査に残った作品は以下の5点です。

さだまさし著『さだの辞書』(岩波書店)

下山進著『アルツハイマー征服』(角川文庫)

門玲子著『玉まつり』(幻戯書房)

柳田由紀子著『宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』(集英社)

上間陽子著『海をあげる』(筑摩書房)

  今回も、いつものように「エッセイスト・クラブ賞の対象であるべき作品」について議論がありました。議論の末、最後まで残ったのは、まさにエッセイそのものであるさだまさしさんの『さだの辞書』と、新しいタイプの評伝といえる柳田由紀子さんの『宿無し弘文』で、おのずとバランスの取れた結果となり、その2点が受賞と決まりました。おめでとうございます。

 お二人のますますのご活躍をお祈りして審査報告といたします。

審査委員長 松本仁一
委 員   秋岡伸彦  海老沢小百合  佐々木健一  高村壽一  内藤啓子  原田國男  降幡賢一  堀尾眞紀子  よしだみどり  吉野源太郎 

さだまさし著『さだの辞書』

エッセイスト賞受賞の御礼に代えて
酋長・歯痛・ポリネシア

さだまさし 

 第69回日本エッセイスト・クラブ賞を、柳田由紀子さんの「宿無し弘文~スティーブ・ジョブズの禅僧~」と共に、光栄にも僕の『さだの辞書』が頂戴した。何かを書くときに評価など気にしたことはないが、こうして改めて褒めて頂くと「不毛の荒野を孤独に歩いている」ような書き手には大きな勇気を頂く。審査員の皆様に心から感謝を申し上げる。

 さて本賞授賞式の日は、前夜にipadで字を読み過ぎたせいか、緊張で寝ながら歯ぎしりでもしたのか左上の奥歯が痛んで困った。

 僕は本を読む時の姿勢が悪いのか、そもそも歯の作りが悪いのか解らないが、読書の後は首が凝って何故か虫歯でもない歯痛に悩むことがある。それは子供の頃からだった。

 こういう時は大いに運動をするか、風景の良いところは旅をするかして心と身体をほぐすのが一番だが、このコロナ禍では旅行もままならない。それで夜中にipadに入れてあるアプリ「Google Earth」を開いて海外旅行を楽しむことにしている。

 空想の中でどこへ行くかというとやはり一番の憧れでもあり、最も遠い南洋の島々だ。たとえば1937年当時、日本の制空権の中、偵察飛行を敢行しながら南太平洋上で失踪した飛行家アメリア・イアハートが目指した「ハウランド島」を探し当ててアメリカが何故この島を大切にしたのかを想像したり、明治時代の冒険家水谷新六が発見した「南鳥島」を見つけて「いつか行ってみたい」という夢を夜毎膨らますのだ。

 幼い頃から『ロビンソン・クルーソー』や『十五少年漂流記』のお蔭で南太平洋の島々に憧れていた僕は実際に20代の半ばに(40数年も前の話)ロサンゼルスでの録音の帰り、弟がかつて一年弱の間ホームステイしていたニュージーランドを一緒に訪ねるついでに憧れのタヒチへ行く計画を立てたが、弟の勘違いで何故かサモアへ連れていかれた。ハワイでのトランジットの待合中に初めてこの事に気づいて随分がっかりした。

 僕は怒り、弟はしょげ返ってアメリカ領サモアの首都パゴパゴ国際空港に着くと、早朝にもかかわらず少年少女が日本でも有名な「サモア島の歌」で迎えてくれたので僕の機嫌はやや直ったが、入管の係官とイエローカードの必要と有無で揉め、結局向こうの勘違いと判って小一時間後に無事に通関。それでまたまた少し不機嫌になって弟に宿泊先を聞くと「レインメーカー・ホテル」と言う。どこかで聞いたことがある、と少し考えてハタと膝を打った。おお、サマセット・モームの名作短編小説『雨』の舞台ではないかと、思いもかけない幸甚に小躍りする。

 プールで一泳ぎした後、部屋でモームに思いを馳せていたら夕刻、空港の入国審査で揉めた係官がわざわざ奥さんを伴い、土産まで持って自分の勘違いを詫びにやって来た。なんと気持ちの良い男だろうと感激し、2人を誘って楽しく夕食をとり、タヒチへ行けなかった悔しさもこれで霧消したのだった。

 レインメーカー山の麓にあるこの名ホテルは残念なことにこの数年後に航空機の墜落による火災で焼失してしまった。首が痛くなるほど真上にある太陽もサモアで初めて体験し、果てしなく澄んだ美しい空と海に感動しつつその湿度の高さに辟易したが『雨』は一度も降らなかった。

 それから僕らは西サモア(サモア独立国)に移動した。西サモアといえば『パパラギ』という本が日本でも一世を風靡したことがある。西サモアの酋長ツイアビによる演説集で、ヨーロッパを見聞して感じた文明社会への警告など箴言に満ちた名著で、僕はこれを友人に配って歩いたほどだったが後にツイアビは欧州へなど行っておらず、この本そのものがドイツ人エーリッヒ・ショイルマンによる創作であったと知ってがっかりした思い出がある。

さだまさし著
『さだの辞書』
(岩波書店)

 また西サモアというと青春期に読み耽った中島敦が『宝島』の作者スティヴンソンが晩年西サモアで暮らした際の日記から「光と風と夢」を書いている。

 ここで僕らは首都アピアに英国人女性アギー・グレイによって1930年代に造られたアギー・グレイズ・ホテルに2泊した。夜9時頃小さな音でギターを弾いていたら、部屋のドアをドンドンと叩く人があった。ドアを開くと大きなサモア人の男性が「今ギターを弾いていたのは君か?」と聞く。夜だったのでうるさかったかと謝罪すると「そうではない、今、ロビーでみんなで歌っているから一緒にどうだ」という。行ってみると10人ほどが集まって歌っている。ここでもビートルズは世界言語だった。

 弟が歌声に気づいて現れ、彼らに僕が日本の歌手だと明かしたので、日本の歌を聴かせろと請われて何曲かしみじみしたものを歌ったらとても喜ばれた。このあと弟とフィジーに移動してここにも2泊したのだから、随分のんびりした旅だった。

 所が実はこのフィジーの辺りで歯が酷く痛み出したのだ。偶然フィジーに慰安旅行に来ていた北海道の看護師さん達と出会い、セデスを貰って数日を誤魔化していたけれど、ニュージーランドに移動して弟がお世話になったブラウン夫妻の家にたどり着いた頃、遂にセデスが切れ、寝られなくなったので鎮痛剤を貰うために町の歯医者に行ったら右下の奥歯が酷い虫歯なのでこれを抜くと言う。怯える僕を前に老歯医者がヤットコを持ち、老奥さんが僕の頭をぐいと握りしめて凶行は行われ、歯は抜けた。

 毎日口の中を消毒しながら数日を過ごし、ようやく日本に帰ったのはロサンゼルスを出てから2週間の後だ。それでも歯痛が止まらないので行きつけの歯医者へ行くと先生は相当驚いた。「外国で歯を抜くなんて、場所によっちゃあ生き死にに関わるぞ」と脅かしながら僕の口の中を覗き込んでいたが「まだ痛むだろう」と言う。「だから来たんだ」というと「酷い虫歯だったからあの歯はいずれ抜こうと思ってはいたんだが…」と彼は高らかに笑った。「痛んでいるのは抜いた歯の隣の歯だぜ」

 ああ。タヒチへ、行きたい。

さだまさし
長崎市出身。シンガー・ソングライター、小説家。1973年フォークデュオ・グレープとしてデビュー。1976年ソロ・シンガーとして活動を開始。「関白宣言」「北の国から」などヒット曲多数。小説に『解夏』『風に立つライオン』など。多くの作品が映画化、テレビドラマ化される。NHK「今夜も生でさだまさし」パーソナリティーとしても人気。2015年「風に立つライオン基金」設立。様々な助成事業や被災地支援事業を行う。風に立つライオン基金との共編著『ボランティアをやりたい!――高校生ボランティア・アワードに集まれ』(岩波ジュニア新書)、コロナ禍に対する同基金の支援活動をまとめた『緊急事態宣言の夜に ボクたちの新型コロナ戦記2020』(幻冬舎)がある。

柳田由紀子著『宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』

笑わせてあげることだよ

柳田由紀子

 本書、『宿無し弘文――スティーブ・ジョブズの禅僧』が世に出るまではなかなかの難産でした。いわく、
 「こんな無名の坊さんの話、誰が読むんだ?」
それもそうかもと、私も思いました。

 ところが、刊行してみるとわずか2ヵ月で増刷、今では、四刷を重ねています。その上、「日本エッセイスト・クラブ賞」という光栄な贈り物までいただいて、何が起きているのかと書いた本人が驚いています。

 この伝記の主人公、故乙川弘文師は、無欲で名を残したいなどとはこれっぽちも思わなかった人ですから、今ごろは雲の上で頭をかいていることでしょう。

 乙川弘文は、人間の“自力”の傲慢や限界を知るが故に、天真宇宙に身をあずけて生きた僧侶でした。人は誰も懸命に生きている。しかし、いくら懸命に努めても所詮は凡夫でどうしようもなく無力だ――。弘文はそれを自覚していたからこそ、背後から押される人間を超えた力に身を委ねてはからいのない生を送りました。

 そのはからいのなさは図抜けたもので、たとえば、弘文の法話は間が長いことで有名なのですが、あまりの長さに弟子たちが師匠の顔を覗きこむと、話している本人が寝ていたという嘘のような本当の話が残っています。

 私自身は、弘文に逢ったことがありません。私が師のことを知った時、弘文はすでに鬼籍に入っていました。ただ、一本だけ法話を記録したビデオが残っています。ヨーロッパの山奥にある禅堂で撮影されたもので、時に弘文、55歳。

 画面に映し出される弘文の語りにはまったく作為が見られず、天然、自然、あるがまま。適切な言葉を選び出そうと無心に首を傾げたり、虚空を見つめる仕草はまるで赤ん坊のようです。
 赤ん坊のような大人――。

 しかも、天真無垢な赤ん坊には邪気もありますが、この大人にはそれもない。私などがそれまでに逢ったことのない大人が、そこにいました。

 弘文の造作のない心は衆生無辺請願度、純情なまでに、「迷える人々は無数にいるが、すべての人を助けたいと願う」というお坊さんの誓いへと向かいます。そして、「助けて」と求める人がいれば、「はいはい」となんの見返りも期待せずに、本当に「はいはい」と欧米各地を訪ね歩くのでした。それはまるで、朝になれば花がひとりでに咲くのと同じように、大宇宙と一体化した自然な行為に、私には映りました。

柳田由紀子著
『宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』
(集英社)

 しかし、弘文が若い時からこうだったかといえば、そんなことはありません。ある法話では自身について、「頭でっかちで高慢ちきな青二才だった」と語っていますし、京都大学大学院時代(弘文は、お寺の三男坊~駒澤大学仏教学部~京大大学院文学研究科仏教学専攻~永平寺~二九歳で布教のために渡米)の日記には、『仏陀』と題されたただならぬ緊迫感が漂う頌歌が綴られています。

こんなに身近に感じているのに。
声も姿も お見せ下さらないのは。
私をいとわしく思われるからですか。
あらゆる罪を犯し、血みどろになった私のそばに。
どうして、あなたはおいでになるのです。

 較べて、先のビデオの弘文の柔らかな無垢はなんということでしょう。いったい「血みどろになった私」が、五十路半ばの大の男になってどうしてああも天真でいられたのか。

 栗田勇氏は、『良寛さん』(新潮社とんぼの本)の中で、
 「生きて生身の人間が、心に血を流しながらも、なお、騰々として天真に遊び純粋でいられるのか。この矛盾を解こうと数知れぬ人々が闘ってきたのが、日本の精神史」
と書きましたが、良寛さんと同郷、新潟出身の弘文さんもまた日本精神史の延長線に佇んだ人でした。 

 私には、弘文が残したなかでもとりわけ好きな言葉があります。

 私たちを取り巻く感覚は、私たちの肉体の一部です。月、星、太陽、風、雨、
すべては、あなたの肉体の一部なのです。

 あれは、テレビでメジャーリーグの試合を見ていた一夜のことでした。屈指の名外野手が神業のようなファインプレーで球を捕えると、試合後のインタビューで以下のように応えました。

 「自分が捕ったんじゃないんです。観客の反応に背中を押されて動いたら、ひとりでに球がグローブに入ったんです」

 弘文と名選手、二人に通じるのは、“自力”に頼ることをとうにやめて、「取り巻く感覚」に委ねることで周囲と調和している点です。弘文の弟子のひとり、アップル創業者の故スティーブ・ジョブズは、iPhoneなど人類の在り方を変えた数々の製品を産みましたが、彼もまた、弘文との日々で「取り巻く感覚」にたゆたい、世界と調和することを習得したにちがいありません。

 私は、乙川弘文を綴った本書にも、自分の意思を超えた外部の圧倒的な力を感じています。『宿無し弘文』は、この賞によりさらに多くの読者に出逢うことになりました。著者としてこれ以上の喜びはありません。

 最後に――。プレゼンテーションの名人、スティーブ・ジョブズにならって“最後にひとつ”。ある時、弟子から、
 「人助けは何がベストだろう?」
と訊かれた弘文は、こう答えたといいます。
 「笑わせてあげることだよ」

このたびは、誠にありがとうございました。

柳田由紀子(やなぎだ・ゆきこ)
1963年東京生まれ。作家、ジャーナリスト。1985年早稲田大学第一文学部演劇専攻卒業後、新潮社入社。月刊「03」「SINRA」「芸術新潮」の編集に携わる。1998年スタンフォード大学ほかでジャーナリズムを学ぶ。2001年渡米。現在、アメリカ人の夫とロサンゼルス郊外に暮らす。著書に『二世兵士 激戦の記録――日系アメリカ人の第二次大戦』(新潮新書)、翻訳書に『ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ』(集英社インターナショナル)などがある。