第67回日本エッセイスト・クラブ賞

審査報告

 1953年に第1回クラブ賞が授与されてから、67回を数えます。今回の審査経過をご報告します。スタート時の応募作品は、会員推薦51点(前回30点)、出版社推薦81点(111点)、個人自費出版など8点(3点)合計140(144点)でした。

 出版社推薦数の減少は「出版不況」下、刊行物厳選反映でしょうか。一方、会員推薦の50点台乗せは心強いことでした。重複作品などを除き117点をリストアップしました。審査委員は新しく3人を迎え計11名で作業に入り、第1回審査で85点を卓に載せました。第3回審議までは二人一組で評価作業を進め、「10連休」中が最盛期。各自精読に励み、第4回では25点に、第5回では絞り込まれた6点を最終候補作品としました。

ドリアン助川著『線量計と奥の細道』(幻戯書房)

齋藤禎著『文士たちのアメリカ留学 1953―1963』(書籍工房早山)

津野海太郎著『最後の読書』(新潮社)

古川雄嗣著『大人の道徳 西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社)

松本創著『軌道―福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い』(新潮社)

小堀鷗一郎著『死を生きた人びと 訪問診療医と355人の患者』(みすず書房)

 最終段階では、前年と同じように二点を受賞作品としました。まずドリアン助川さんの作品が決まり、次に小堀さんの作品が多数票を集めました。どの作品にも推薦票が入り、活発な議論が行われ、選考水準の高い審議でした。  

 審査期間中に元号が変わったのはたまたまでしたが、総じて候補作品には、今日性の高いテーマが多かったのが印象的です。時代認識、環境破壊、原発問題、終末医療・介護、道徳・倫理などです。
著者の年齢は比較的高く、ここで書き付けて置かねば、という意欲が伝わってまいりました。昨年の受賞二作品は女性の著作でしたが、今回の最終候補作品は男性陣が占めました。 

審査委員長 髙村壽一
委 員   太田愛人 後藤多聞 中丸美繪 原田國男 深尾凱子 降幡賢一 松本仁一 村尾清一 よしだみどり 吉野源三郎 

小堀鷗一郎『死を生きた人びと 訪問診療医と355人の患者』

名もなき死者のために

小堀鷗一郎 

 この受賞は私にとって大きな喜びである。本書は一言で表すならば市井の人びとの死の記録である。大きな業績を残すこともなく、誰からも顧みられず、場合によっては肉親からさえ顧みられることなくこの世を去って行った人びとにも語るべき豊かな人生があった。そして彼らの多くが、彼らなりに死を受け入れ、最期の時を過ごしたのである。この書はそのような人びとへの挽歌であり、また池内紀氏の言葉を借りるならば「勇気をもって死と向き合った人への敬意である」。この賞によって、彼ら一人一人に光が当てられたことを心から喜びたい。正直なところ、私はエッセイを書いた覚えはなかった。今回の受賞が全くの想定外の事態であったことは、みすず書房から出版社推薦が出されていなかったことからも明らかであるが、私なりに日本エッセイスト・クラブ賞について情報収集を行ったところ、この賞が小説以外の広範囲の著作を対象にしていることが判明した。すなわち、本書は随筆、評論、伝記、研究、旅行記、いずれにも該当しない、言うなればノンフィクション部門の著作として受賞対象になった、という結論に至った。私は成人してから、もっぱらノンフィクション部門を読書の対象としてきた。私はこの先二度と本を書くつもりはないが、最初で最後の著作である本書が自分の最も好んだ文学のジャンルに於いて受賞対象になったことには、何とも言えない達成感がある。

 深甚なる謝意を表すために授賞式に出席していただいたのは次の各氏である(敬称略)。伊藤俊也:映画監督。私の診療活動に密着取材しオリジナルシナリオ「雷に打たれる前に」を完成させた。大野鞠子:成城学園小・中学校同期生。成城学園に多目的ホール「CasaMia」を建て、そこで行った私のレクチャー「終末期医療の現状」が成城大学同窓会講演会「ヒポクラテスに還る」、ラジオ深夜便「心に響く医の道を求めて」、NHKスペシャル「大往生~我が家で迎える最期~」につながった。下村幸子:NHKエグゼクティブ・プロデューサー。8か月間私の診療にディレクター兼カメラマンとして密着、NHKBS1スペシャル「在宅死 死に際の医療200日の記録」、NHKスペシャル「大往生~我が家で迎える最期~」、記録映画「人生をしまう時間(とき)」を製作した。新山賢治:元NHKシニア・エグゼクティブ・プロデューサー。ラジオ深夜便「心に響く医の道を求めて」を基にNHKBS1スペシャル「在宅死 死に際の医療200日の記録」をプロデュースした。瀬川ゆき:世田谷文学館学芸部長。執筆の初期から完成に至るまで、多くの助言を行った。堀越洋一:堀ノ内病院地域医療センター長として私と共に在宅医療に従事。多くの助言によって原稿完成の原動力となった。Wassermann Estrellita:元東京大学教養学部フランス科外国人教師。本書をフランス語に翻訳した。

 さらにこの賞を小尾俊人氏に捧げたい。みすず書房創業者の一人、故小尾俊人氏が亡母小堀杏奴の随筆集を出版するために我が家を訪れたのは、私が小学生のときであった。爾後約60数年小尾氏は私にとって年の離れた兄のような存在であった。映画(ジョン・フォード監督『駅馬車』)に連れて行ってもらったことを起点とすれば、終点は亡くなった2011年の春、亡父が戦前パリで購入したデッサンの鑑定を依頼するため銀座の画廊に同行してもらったことであり、そして中間には、無名の画家であった亡父の遺作300点の世田谷美館への寄贈と亡母の遺品整理(『鷗外の遺産』幻戯書房、全三巻、2004~2006年)がある。60数年間にわたる交流の中で私の呼び名は幼少時は「鷗ちゃん」、成人後は「あんた」であった。「あんたねー、」という電話の呼びかけは叱責を受けることを予感させた。褒められることはまずなかった。その小尾さんが今回の受賞を何と言うのか、また自分に捧げられたことにどのような反応をするか、それは永遠に謎である。

小堀鷗一郎 著
『死を生きた人びと 訪問診療医と355人の患者』
(みすず書房)

 2年がかりで書き上げた原稿をみすず書房に持ち込んだのは、出版に値すると判断されるにせよされないにせよ、小尾俊人の後継者に委ねたいという思いがあったからに他ならない。原稿をめくりながら社長の守田省吾氏は私に問いかけた。「この原稿を書きながら貴方は何を考えていましたか」。この言葉は守田氏を通して問いかけられた小尾俊人氏の言葉として、私の心から消えることはない。それから10か月にわたり市田朝子氏は冷徹な科学者として、また誠意ある編集者として原稿を分析し批評した。私がそれに従って修正を重ねた結果がこの書である。

 本書を脱稿して既に1年半になるが、私の生活には以前と変わるところは全くない。死を認めようとしない患者、そして家族、社会。その中で死にゆく人の最後の望みを叶えるための戦いはほとんどが負け戦である。また戦士である私自身、医師としても、また一生物個体としても最終場面に差し掛かっている。「死を怖れず、死にあこがれず」日々を過ごしたい。

小堀鷗一郎 (こぼり・おういちろう)
1938年東京生まれ。東京大学医学部医学科卒業。医学博士。東京大学医学部付属病院第一外科・国立国際医療研究センターに外科医として約40年間勤務。定年退職後、埼玉県新座市の堀ノ内病院に赴任。在宅診療に携わり、355人の看取りにかかわる。うち271人が在宅看取り。現在、訪問診療医。母は小堀杏奴、祖父は森鷗外。  

ドリアン助川著『線量計と奥の細道』

感受の目から見えるもの

ドリアン助川

 ありがとうございます。まず、選考をして下さったみなさんに、お礼を申し上げたいと思います。  
新宿ゴールデン街で受賞を告げましたところ、
「あの栄誉ある賞をお前が取るはずがない」
「錚々たる書き手ばかりがもらっている賞だよ。お前が取るはずがない」
「あれは文章がうまい人だけが取る賞だよ。お前が取るはずがない」
と、「取るはずがない」の三連続攻撃を受けました。それほど栄誉ある、そして歴史もある「日本エッセイスト・クラブ賞」を受賞するという、夢のようなことが起きてしまったわけです。
 
 私はもともと、賞はおろか、人にあまり誉められることもない日々を歩んできました。これはもちろん、私に理由があります。若い頃の行動の指針は「突出」でした。人と同じことをやっていてはいけない。誰よりも能動的に行動して、他を引き離さなければいけない。そんなふうに考えていたのです。
 
 たぶん、悔しかったのでしょうね。私は目が色弱でして、見分けのつかない色がいくつかあるそうです。実生活で困ったことはほとんどないのですが、大学生のとき、就職活動で愕然としました。目指していた業界、テレビ局や映画会社、出版社などが、すべて受験不可だったのです。

 まだ打たれ弱かった頃ですから、企業には入らず、1人で生きて行くということを誓った夜明けには涙が出ました。
 
 大学卒業後は、塾の先生や夜のお店のアルバイトをしながら、フリーの放送作家になりました。テレビやラジオの番組台本を書く仕事です。というと、面白そうに聞こえるかもしれませんけれど、業界のヒエラルキーで言えば最下層です。人間扱いされないような日々が続きました。
 
 その頃の鬱積が、突出への思いにつながったのでしょう。その後、フリーの記者として東欧革命やカンボジアPKOに突っ込んでいったのも、世界の現状を憂うパンクバンドを結成し、モヒカンの頭を逆立てて叫ぶようになったのも、自分を痛めつけてきた何ものかに対し、見返してやりたいという気持ちがあったからだと思います。

 突出を求めるあまり、30代の後半からはニューヨークに居を構えまして、日米混成のバンドを結成し、マンハッタンでライブを繰り広げました。
 
 しかし、そこまででした。ある日突然、柱が折れてしまったような気分になり、ニューヨークのアパートのなかに引きこもってしまったのです。結局、自分はなにもできなかった。突出はおろか、不器用な人間がつま先立ちで踊っていたに過ぎなかった。そのことがはっきりわかりました。
 
 帰国したとき、私は40歳になっていました。無職です。貯金もありません。日本をずいぶん離れていたので、人間関係も崩壊していました。多摩川の土手沿いにアパートを借りたので、できることと言えば、川原に佇んで、ただ茫然とするばかりです。
 
 ぺんぺん草の生える川原から、他人の家々を見て思いました。もう自分は、一戸建てを手に入れることすらできないだろう。
 
 ならば、どうするか。よし、ものを所有するという欲望をまず断ち切ろう。所有とは縁のない人生だとここで覚悟しよう。その代わり、ただでもできること。ひたすらに受動的であること。アンテナのようにこの世を感じるということだけは一生懸命にやろう。
 
 私はその姿勢を「積極的感受」と呼んでいます。そして、これが良かったのです。所有を諦めるとは、敷地の壁を越えるがごとく、ものごとを区別する境界を越えていくことです。多摩川の四季は私と友達になり、世界はこれまでとは違った意味で、その扉を開けてくれました。

 今回賞をいただきました『線量計と奥の細道』は、まさにその積極的感受を貫いた旅の記録です。震災の翌年、原発事故のその後の報道も減ってきまして、実際のところはどうなのだろう? という思いが胸のなかに溜まりました。ちょうど参考書を作ろうとして、『奥の細道』の現代語訳に勤しんでいるときでもありました。芭蕉が俳句を詠んだ土地がどれだけ被曝してしまったのか、その空間線量も知りたいと思いました。

 ならば、自分の目で見るしかない。被災地に住んでいらっしゃるみなさんに会って声を聞くしかない。そう思ったのです。

ドリアン助川著
『線量計と奥の細道』
(幻戯書房)

 50歳の夏です。小さな折畳み自転車に乗って、とびとびに継いでいく旅でしたが、およそ二千キロを踏破しました。

 栃木では、肉牛の繁殖業を廃業せざるを得なくなった農場主に会いました。「首を吊る農家が出てきますよ」という彼の言葉が今も耳に残ります。
 
 福島では、虐待や育児放棄で親とは暮らせなくなった児童を預かる養護施設を訪れました。線量が高いために、夏でもエアコンは使えません。園長先生は、「ならばここを出ていけばいいというが、子供たちを抱えてどこに出ていけるというのか。私たちはここで暮らすしかないのです」とおっしゃいました。
 
 一晩泊めていただいたある家庭では、高校生 の娘さんを相手に父親がこう話しました。 「大学で福島から出ていきなさい。無理に戻ってこなくていいから」
 
 こうした言葉と人々の表情はたしかに文字を綴る動機となりました。しかし同時に、測った線量を公表すべきかどうか、その迷いにもつながり、私は長い間、この旅の記録を公表するかどうか逡巡したのです。
 
 でも、現政権のやり方が支配的になるにつれ、人々はいつのまにか押し黙ってしまいました。原発再稼働は当たり前になり、オリンピックに向けた喧噪のなかで、いまだ仮設住宅で暮らすみなさんの存在さえかき消されようとしています。
 
 私は色弱ですが、感受すると決めたこの目には、圧迫のなかでじっと堪えているみなさんの姿が見えます。自分はいったいどちら側に立つ身なのか。そう問うたとき、この記録を出すべきだと思いました。そして縁あって幻戯書房の編集者、田口博さんと出会い、彼の努力もあってこの本は世に出ました。
 
 受賞をきっかけに、多くのみなさんに読んでいただきたい。今はただそれを願っております。ありがとうございました。 

ドリアン助川(ドリアン・すけがわ)
1962年、東京生まれの神戸育ち。作家、朗読家。早稲田大学第一文学部東洋哲学科卒。日本ペンクラブ理事。長野パラリンピック大会歌『旅立ちの時』作詞者。放送作家を経て1990年、バンド「叫ぶ詩人の会」を結成。ラジオ深夜放送のパーソナリティとしても活躍。若者たちの苦悩を受け止め、放送文化基金賞を得る。同バンド解散後、2000年からニューヨークに3年間滞在し、日米混成バンドでライブを繰り広げる。帰国後は明川哲也の第二筆名も交え、本格的に執筆を開始。著書多数。小説『あん』は河瀬直美監督により映画化され、2015年カンヌ国際映画祭のオープニングフィルムとなる。また小説そのものもフランス、イギリス、ドイツ、イタリア、タイ、ベトナムなどで出版され、2017年にはフランスの「DOMITYS文学賞」と「読者による文庫本大賞(Le Prix des Lecteurs du Livre de Poche」の二冠を得る。