園部哲著『異邦人のロンドン』
受賞者の言葉
悪夢と圧力鍋
園部哲
おととい(6月22日)着いたばかりなのでまだ時差ぼけがぬけず、ぼんやりしています。それに加えて、日本語を話すのは年に一度位しかないような暮らしをしておりますので、はたしてまともに喋ることができるかどうか、はなはだ不安です。そもそもが、あれよあれよといううちに事が進んでしまった話なので、ロンドンからの飛行機の中でも、自分はなぜこのフライトに乗っているのだろうと自問することも、たびたびでした。
三月の初めであったと思います。編集者の方から「あの本をエッセイスト・クラブ賞に応募しておきました」というメールを頂きました。この賞の存在は存じておりましたが、選考プロセスの仕組みは知らず、本クラブのホームページを改めて拝見し、毎回百冊以上の本がエントリーされると知り、受賞などは無理だが、まあいい記念にはなるかなと思っていました。ところが五月の上旬になって、今度は最終選考に残ったというメールが届きました。最初は浮かれていたものの、選考日が近づくにつれて、気分が落ちこみ絶望状態に陥りました。
というのは、最終選考の対象作品に選ばれて落ちるという、嫌な記憶がトラウマになって残っていたからです。それはもう四十年も前のことです。まだ二十代だった僕はパリに留学していました。貧乏学生でしたからまともな部屋には住めず、小さな印刷所の地下室に住んでいました。
その牢屋のような部屋で書いた小説を、ある文芸雑誌の新人賞に送ったところ、最終候補に残るという僥倖に恵まれたのです。今はどうなのかわかりませんが、その当時は最終候補作品はきちんと組版にしてもらい、受賞の暁には挿絵を入れるだけという体裁のコピーを頂くことになっていました。現在では死語になりつつあるのではないかと思われる「活字になった」瞬間でした。それと同様に嬉しかったのは、同封されていた一筆箋に「君には何かがある」という編集者からの言葉があったことです。さらに選考日が近づくと、白黒の顔写真を送れという注文も来ました。
そして選考日の当日、僕は朝から鳴らない電話を丸一日見つめていました。東京がすでに真夜中を過ぎた時間になっても、きっと選考会は紛糾して受賞作がなかなか決まらないのだ、と自分を宥めたり誤魔化したりして、鳴らない電話の正当化をしていました。落選すれば落選したで、残念でしたという電話がかかってくるに違いないから、電話が鳴らないのは吉兆でもあるなどと、屁理屈の曲芸をしておりました。要は妄想の中で七転八倒していたのでした。それもパリ郊外の暗い印刷所の地下室で。
そのようなみじめな体験があったものですから、本賞の最終選考日が近づくにつれ、またあれを繰り返すのかという嫌な気分がじわじわと湧いてきたというわけなのです。
そのあと数週間が経ってから、編集者の方から電話があり、選考会がどんなふうだったか教えてくれました。その時の選考委員は江藤淳、安岡章太郎、中上健次などの面々。編集者の方の説明はこうでした。「安岡さんなんかは、いいんじゃないと言ったんだけど、中上健次が猛烈に反対してね。こういうのは大嫌いだ、冒頭からしてむかつく、と言うんですよ」
これを聞いたらもう何も言えません。「君には何かがある」一件はどうなったのか?
その後日本へ帰ってその編集者にお会いし、もう小説はだめだと思うからエッセイでも書いてみたいと言うと「エッセイでも、とはなんですか。君みたいな無名の男がエッセイを書いたって誰も読みゃしませんよ」と一喝されました。
「このままサラリーマンをやりなさい。その道だって得ることは多いし書きたいことも出てくるはずだ」とも。
確かにあのときエッセイを書くことを許されていたら、中上健次の悪口を書くという無謀で危険なことをやらかしていたかもしれません。あれから四十年が過ぎ、人の悪口は書かない程度のたしなみは身につきました。ただ、編集者の警告である「無名の男のエッセイなど誰も読まない」という点をクリアしたかどうかは、長らく判別できずにおりました。しかし今回の受賞で、無名に変わりはないけれども好意的に読んでくれる人はいたのだという、品質検査に合格した安堵感を得ることができました。四十年来のトラウマがやっと消えたように思います。
次に、この本を書いた動機についてお話ししたいと思います。結論を先に言うと、翻訳の仕事が大いに影響していたということです。55歳を過ぎてから仲間もいないままに翻訳を始めたわけなので、同業者と話したこともなく、翻訳者全員に当てはまる現象かどうかは分かりませんが、僕は翻訳を始めるとほぼイタコ状態になります。つまり原作者に憑依されたような気分になるのです。
コロナ禍で外出禁止になった頃から、1950年代のソ連の小説『スターリングラード』を訳し始めました。著者はウクライナ生まれのユダヤ人で、実際にスターリングラード攻防戦に従軍し、最終的にはベルリン解放までソ連軍に同道したジャーナリストで、名前をワーシリー・グロスマンといいます。彼の作品で最も有名な『人生と運命』は十年以上前に、みすず書房から三巻本として出版されました人生と運命』は、いわゆるスターリングラード二部作の第二部に当たるもので、僕が訳した『スターリングラード』の方は第一部に当たります。こちらもまた三巻本となり、最終巻が白水社から七月に出ることになっています。なぜ第一部と第二部の出版順序が逆になったのか、なぜその間に十年ものインターバルが生じたかの理由については、話しだすと長くなりますのでここでは省略します。
ともあれ、トルストイの『戦争と平和』を越える長さの大長編の前半部分を訳すというのは実力以上の仕事に思われましたが、なんとか乗り切れたのは、コロナ禍で外出や旅行がままならなかった、いわゆるおこもり状態にあったからだと思います。しかし、翻訳を始めるとイタコ状態になると自認する僕がおこもり状態になったので、大変なことが起きました。というのは大袈裟ですが、長時間プレスをかけ続けた圧力鍋から蒸気が漏れ出すように、グロスマン以外の声、つまりは自分の声をひびかせたいという欲求がむらむらと湧いてきたのです。力仕事の副産物というか、作用に対する反作用、あるいは解毒作用といったものかもしれません。その力を借りて、次々に湧いてきた文章がこの本になったということが言えます。
ただ、自分の声を響かせたいといっても、山のてっぺんから叫びたいということではなく、地面に穴を掘ってそこへボソボソと呟くというのがこのエッセイを書いているときの正直な心境でした。ですから、こんなに歴史のある賞をいただき、ロンドン郊外の小さな町から東京までお呼びいただく羽目になるというのは、サイズの合わない服を着せられたような、おもはゆい感じがしてならないのです。
今回こういうことになってから、改めてエッセイスト・クラブの過去の受賞作を眺めてみました。すると、過去に愛読した木村尚三郎『ヨーロッパとの対話』、中野孝次『ブリューゲルへの旅』なども受賞作だったことに驚く以上に、犬養道子『私のヨーロッパ』、柴田俊治『遙かなヨーロッパ』、和田俊『パリの石畳』などの名作が、最終候補になりながら落選していたという事実に驚きました。これらのエッセイは、若い頃の自分を豊かにしてくれた作品群であり、ロンドンに関するエッセイを書きたいという気持ちを触発した、先行モデル群と言えます。これらの優れた著者たちと同じ土俵に乗ったことは驚きであり、ありがたいような申しわけないような気分でいっぱいです。
ところで、四十年前にエッセイの執筆を踏みとどまらせてくれた編集者はどうしているでしょうか。この本が最終選考に残ったという知らせを受けたとき、ぜひ一冊お送りしようと連絡先を調べました。しかし残念なことに、彼はこの本が出た翌月にお亡くなりになっておられました。恩人としてのもう一人の編集者、集英社インターナショナルの田中伊織さんは、書きあげた都度送った作品一編一編を評価してくださいました。そうしたおだてというか励ましがあればこそ、この十九編が成立したのです。それだけでなく、本賞への応募という思いもよらぬチャレンジをして頂いたからこそ、今僕はこの場に立っているわけです。どうもありがとうございました。
園部哲(そのべ・さとし)
1956年福島県生まれ。75年磐城高校卒業。79年一橋大学法学部卒業、三井物産入社。2005年に早期退職し翻訳業に就く。以降ロンドン西郊在住。翻訳書にグロスマン『スターリングラード』、サンズ『ニュルンベルク合流』、ラングフィット『上海フリータクシー』(以上白水社)、デミック『密閉国家に生きる』(中央公論新社)、シュトルジック『北極大異変』(集英社インターナショナル)ほか。08年から朝日新聞GLOVE「世界の書店から」で英国のベストセラーについて執筆を担当。