第69回(2021年) 日本エッセイスト・クラブ賞

第69回日本エッセイスト・クラブ賞は6月1日、審査委員会(松本仁一委員長)の最終審査の結果、下記の2作品の受賞が決まりました。贈呈式は6月28日、日本記者クラブ内で行われました。1953年創設のクラブ賞は、エッセー、評論などの分野で最も権威のある賞として定着しています。 


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さだまさし氏(右)と米国在住の柳田由紀子氏の代理・母親の柳田美枝氏(左)


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審査報告

エッセイと評伝と
審査委員長 松本 仁一

 第69回日本エッセイスト・クラブ賞の審査経過を報告いたします。
 今回は、24名の会員から推薦された作品が25点、出版社33社からの推薦が92点、個人による応募が10点、合計127点の応募がありました。これらのうちから、編著作品、過去作品の復刻版、著者死亡など審査基準に外れた作品を除外し、さらに3月17、18両日の予備審査を経て、対象作品を60点に絞り込みました。この60作品について、11人の審査委員が4回にわたって審査し、6月1日に受賞作品2点が決定いたしました。昨年に続き、今年も審査はコロナ感染の影響を受けました。期間のほとんどが緊急事態宣言にかかってしまったのです。まだ寒さの残る時期だったのですが、窓を開け払った中で審査が続けられました。そんな状況でも、感染者を出すことなく最終審査を終えることができ、審査委員一同、ほっとしている次第です。
 最終審査に残った作品は以下の5点です。

 さだまさしさん『さだの辞書』
 下山進さん『アルツハイマー征服』
 門玲子さん『玉まつり』
 柳田由紀子さん『宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』
 上間陽子さん『海をあげる』

  今回も、いつものように「エッセイスト・クラブ賞の対象であるべき作品」について議論がありました。議論の末、最後まで残ったのは、まさにエッセイそのものであるさだまさしさんの『さだの辞書』と、新しいタイプの評伝といえる柳田由紀子さんの『宿無し弘文』で、おのずとバランスの取れた結果となり、その2点が受賞と決まりました。
 おめでとうございます。
 お二人のますますのご活躍をお祈りして審査報告といたします。

審査委員
委員長 松本 仁一
委 員 秋岡 伸彦  海老沢小百合  佐々木健一  高村 壽一  内藤 啓子  原田 國男  降幡 賢一  堀尾眞紀子  よしだみどり  吉野源太郎 


本:さだの辞書.jpg

受賞作の紹介

切なく温かい歌の秘密が見えてくる
さだまさし著『さだの辞書』
審査委員 堀尾眞紀子

 この本を手にしたとき、『さだの辞書』というタイトルに〝目が点になった”。ん?。
 この言葉は一九七〇年代、さださんの周辺で、漫画の主人公が驚いたとき目が点で描かれるのを面白がって広まったという経緯を読んで、また驚いた。何とそれが岩波書店の広辞苑に載り、それがご縁で岩波の『図書』にさださんの連載が始まり、それをまとめたものが本書だという。小さな点が、ときに爆笑、ときに涙の見事なエッセイ集にまで繋がったことに、またまた目が点になる。
 さて本書を読んで、著者の家系にまず度肝を抜かれた。祖祖父は長崎で一番の廻船問屋の主で、町のヤクザも押さえ込む大侠客、祖父は帝国陸軍のスパイ、祖母はロシア語を流暢に話す拳銃使いとまるで小説そのもの。勇猛果敢、かつ波乱万丈、並ではない。
 父は長崎で材木問屋を営み広大な屋敷を構えていたようだが、水害で全てを流されて一転、二間の長屋暮し。かつては年末、大きな土間で使用人たちが盛大に餅つきをしていたのに、長屋に賃餅屋から届く餅箱の中の餅の数で家計を察し一喜一憂、オロオロしていた親思いの長男が、さだまさしである。
 しかし父親はどこか鷹揚で屈託なく、年末の借金取りの算段で難儀をしている母親を尻目に、まさしを連れて床屋に出かけ、終わると次は靴屋の敷居をまたいで靴を磨かせる。帰宅すると、母親もまた文句も言わず出迎えて、甲斐甲斐しくおせち料理に精を出している。こんなさっぱりしたおおらかな雰囲気から、さだの人間味溢れる明るい性格が育まれたのではと思う。
 そんな生い立ちを土台に、ヴァイオリニスト目指して中学一年のとき単身上京。その夢はほどなく潰え、大学は中退、アルバイトに明け暮れるなど様々な苦労と人との出会いが描かれるが、悲壮感は微塵もない。お腹をすかした仲間との下宿生活、売れない時代の地方への宣伝まわりなど、ご本人は真面目かもしれないが実に可笑しく、深夜に一人笑い転げてしまった。
 かと思うと著者が縁のあった、俳人・石橋秀野にまつわるくだりでは、幼な子を残して若くして逝く彼女の無念さを想って、思わず目頭が熱くなった。
 圧巻は東大寺二月堂の、千三百年続く「修二会」に参籠した際の、修行衆の行の様子である。縁あって私も何度か聴聞したことがあるが、もちろん外の回廊の下で深夜、勇壮に駆け抜ける松明の火の粉を大勢で浴びるのみ。筆者の見事な描写で、内陣の息を飲む激しい行が伝わってきた。
 この松明には続きがある。舞台から火の粉を撒き散らした十三メートルのお松明を、トラックで高速道路を運び気仙沼など被災地に灯す、という信じられない企画を立ち上げる。東日本大震災後に「音楽家は無力だ…」と絶望していた著者は、折りあって訪ねたときの被災者の笑顔に励まされ、休みの日を見つけてはギターを抱え避難所を次々と廻る。そしてこの不可能と思える企画を、高速道路をサイレン鳴らし追ってきたパトカーの警察官をも巻き込んで実現させたのだ。さださんに繋がる人々の思いが結集した瞬間だ。
 本人は「僕には運の神様が付いている」というが、それも人との繋がりを何よりも大事にする、彼の人柄が成せるものと思う。何を突飛なことを、と思わせる現実的でない計画も、読み進むうちに可能に思えてくる不思議な爽快感が随所にある。
 そのスケールの大きさがまた半端でない。東日本大震災をきっかけに、著者は「公益財団法人 風に立つライオン基金」を創立するが、アフリカ・ケニアに降り立ち、ナイロビの貧民街の診療所支援、フィリピン・ミンダナオ島の孤児院、スーダンの僻地医療の支援と、世界で人知れず奮闘する日本人の手助けに駆け巡る。アフガンで命を奪われた中村哲医師はじめ、海外で支援活動をする、多くの日本人を畏敬を込めて紹介し、それを己の使命と心得ている。
 もちろん国内は北海道での台風被害から、熊本の大震災に駆けつけるなど東奔西走、思わず宮沢賢治の「…東に病気の子供あれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば…」の『雨のも負けず』の詩が重なって見えた。
 口さがない人の中にはやれ「偽善」だの「売名」だのとの声もあるようだが、なあに「ぼくら偽善活動なんですよ」と笑えばいいのだ、という大らかさに脱帽!
 こういう活動の中で出会う若者たちとの交流にも胸が熱くなる。自発的にアイデアを持ち寄り活き活きと動く高校生たちを、著者はある種の「革命」だという。自分たちの力を生かしたいというまっすぐな思いが結集したとき革命は起こり、やがて世の中が変わると。若い人たちを信じる率直さが胸をすく。
 さだまさしの歌は人の心を打つ。誰でもが持つ切なさや寂しさ、孤独感を、さりげない詩と温もりのあるメロディで鮮やかに歌い上げる。なんとも人間味に溢れた彼の歌の秘密が、この本を読んで垣間見えたような気がする。

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受賞の言葉

エッセイスト賞受賞の御礼に代えて
酋長・歯痛・ポリネシア
         さだまさし  

 第69回日本エッセイスト・クラブ賞を、柳田由紀子さんの「宿無し弘文~スティーブ・ジョブズの禅僧~」と共に、光栄にも僕の「さだの辞書」が頂戴した。何かを書くときに評価など気にしたことはないが、こうして改めて褒めて頂くと「不毛の荒野を孤独に歩いている」ような書き手には大きな勇気を頂く。審査員の皆様に心から感謝を申し上げる。
 さて本賞授賞式の日は、前夜にipadで字を読み過ぎたせいか、緊張で寝ながら歯ぎしりでもしたのか左上の奥歯が痛んで困った。
 僕は本を読む時の姿勢が悪いのか、そもそも歯の作りが悪いのか解らないが、読書の後は首が凝って何故か虫歯でもない歯痛に悩むことがある。それは子供の頃からだった。
 こういう時は大いに運動をするか、風景の良いところは旅をするかして心と身体をほぐすのが一番だが、このコロナ禍では旅行もままならない。それで夜中にipadに入れてあるアプリ「Google Earth」を開いて海外旅行を楽しむことにしている。
 空想の中でどこへ行くかというとやはり一番の憧れでもあり、最も遠い南洋の島々だ。たとえば1937年当時、日本の制空権の中、偵察飛行を敢行しながら南太平洋上で失踪した飛行家アメリア・イアハートが目指した「ハウランド島」を探し当ててアメリカが何故この島を大切にしたのかを想像したり、明治時代の冒険家水谷新六が発見した「南鳥島」を見つけて「いつか行ってみたい」という夢を夜毎膨らますのだ。
 幼い頃から「ロビンソン・クルーソー」や「十五少年漂流記」のお蔭で南太平洋の島々に憧れていた僕は実際に20代の半ばに(40数年も前の話)ロサンゼルスでの録音の帰り、弟がかつて一年弱の間ホームステイしていたニュージーランドを一緒に訪ねるついでに憧れのタヒチへ行く計画を立てたが、弟の勘違いで何故かサモアへ連れていかれた。ハワイでのトランジットの待合中に初めてこの事に気づいて随分がっかりした。
 僕は怒り、弟はしょげ返ってアメリカ領サモアの首都パゴパゴ国際空港に着くと、早朝にもかかわらず少年少女が日本でも有名な「サモア島の歌」で迎えてくれたので僕の機嫌はやや直ったが、入管の係官とイエローカードの必要と有無で揉め、結局向こうの勘違いと判って小一時間後に無事に通関。それでまたまた少し不機嫌になって弟に宿泊先を聞くと「レインメーカー・ホテル」と言う。どこかで聞いたことがある、と少し考えてハタと膝を打った。おお、サマセット・モームの名作短編小説『雨』の舞台ではないかと、思いもかけない幸甚に小躍りする。
 プールで一泳ぎした後、部屋でモームに思いを馳せていたら夕刻、空港の入国審査で揉めた係官がわざわざ奥さんを伴い、土産まで持って自分の勘違いを詫びにやって来た。なんと気持ちの良い男だろうと感激し、二人を誘って楽しく夕食をとり、タヒチへ行けなかった悔しさもこれで霧消したのだった。
 レインメーカー山の麓にあるこの名ホテルは残念なことにこの数年後に航空機の墜落による火災で焼失してしまった。首が痛くなるほど真上にある太陽もサモアで初めて体験し、果てしなく澄んだ美しい空と海に感動しつつその湿度の高さに辟易したが『雨』は一度も降らなかった。
 それから僕らは西サモア(サモア独立国)に移動した。西サモアといえば『パパラギ』という本が日本でも一世を風靡したことがある。西サモアの酋長ツイアビによる演説集で、ヨーロッパを見聞して感じた文明社会への警告など箴言に満ちた名著で、僕はこれを友人に配って歩いたほどだったが後にツイアビは欧州へなど行っておらず、この本そのものがドイツ人エーリッヒ・ショイルマンによる創作であったと知ってがっかりした思い出がある。
 また西サモアというと青春期に読み耽った中島敦が「宝島」の作者スティヴンソンが晩年西サモアで暮らした際の日記から「光と風と夢」を書いている。
 ここで僕らは首都アピアに英国人女性アギー・グレイによって1930年代に造られたアギー・グレイズ・ホテルに2泊した。夜9時頃小さな音でギターを弾いていたら、部屋のドアをドンドンと叩く人があった。ドアを開くと大きなサモア人の男性が「今ギターを弾いていたのは君か?」と聞く。夜だったのでうるさかったかと謝罪すると「そうではない、今、ロビーでみんなで歌っているから一緒にどうだ」という。行ってみると10人ほどが集まって歌っている。ここでもビートルズは世界言語だった。
 弟が歌声に気づいて現れ、彼らに僕が日本の歌手だと明かしたので、日本の歌を聴かせろと請われて何曲かしみじみしたものを歌ったらとても喜ばれた。このあと弟とフィジーに移動してここにも2泊したのだから、随分のんびりした旅だった。
 所が実はこのフィジーの辺りで歯が酷く痛み出したのだ。偶然フィジーに慰安旅行に来ていた北海道の看護師さん達と出会い、セデスを貰って数日を誤魔化していたけれど、ニュージーランドに移動して弟がお世話になったブラウン夫妻の家にたどり着いた頃、遂にセデスが切れ、寝られなくなったので鎮痛剤を貰うために町の歯医者に行ったら右下の奥歯が酷い虫歯なのでこれを抜くと言う。怯える僕を前に老歯医者がヤットコを持ち、老奥さんが僕の頭をぐいと握りしめて凶行は行われ、歯は抜けた。
 毎日口の中を消毒しながら数日を過ごし、ようやく日本に帰ったのはロサンゼルスを出てから二週間の後だ。それでも歯痛が止まらないので行きつけの歯医者へ行くと先生は相当驚いた。「外国で歯を抜くなんて、場所によっちゃあ生き死にに関わるぞ」と脅かしながら僕の口の中を覗き込んでいたが「まだ痛むだろう」と言う。「だから来たんだ」というと「酷い虫歯だったからあの歯はいずれ抜こうと思ってはいたんだが…」と彼は高らかに笑った。「痛んでいるのは抜いた歯の隣の歯だぜ」
 ああ。タヒチへ、行きたい。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

さだまさし

 長崎市出身。シンガー・ソングライター、小説家。1973年フォークデュオ・グレープとしてデビュー。76年ソロ・シンガーとして活動を開始。「関白宣言」「北の国から」などヒット曲多数。小説に『解夏』『風に立つライオン』など。多くの作品が映画化、テレビドラマ化される。NHK「今夜も生でさだまさし」パーソナリティーとしても人気。2015年「風に立つライオン基金」設立。様々な助成事業や被災地支援事業を行う。風に立つライオン基金との共編著『ボランティアをやりたい!――高校生ボランティア・アワードに集まれ』(岩波ジュニア新書)、コロナ禍に対する同基金の支援活動をまとめた『緊急事態宣言の夜に ボクたちの新型コロナ戦記2020』(幻冬舎)がある。

 

 


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受賞作の紹介

巨大な“空白”を埋める旅
柳田由紀子著『宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』
審査委員 佐々木健一

 故スティーブ・ジョブズが語った言葉。
 「ハングリーであれ、愚かであれ」。
 彼が遺した革新的で洗練された製品と共に、代名詞のように度々引用されるスピーチの一節だ。しかし、私は長年、この言葉の真意を掴めずにいた。後半は「愚直であれ」と訳されることもあるが、余命半年の膵臓癌と宣告された彼が、「馬鹿正直であれ」「一途であれ」という意味で、この言葉を述べたとは思えなかった。
 では、「愚かであれ」とは如何なる意味か――。
 私は本書を手にして初めて、そこに込められた真意、その言葉の深遠に触れることができた。没後一〇年間に数多のジョブズ関連本が刊行されたが、これほど彼の思想の奥深くまで探求し、考察できたものはない。本書はそれをジョブズ本人ではなく、ある日本人を通して描いている。
 『宿無し弘文』の「弘文」とは、ジョブズが生涯唯一の“師”と仰いだ日本人禅僧、乙川弘文のこと。「禅」の教えが、MacやiPhoneといったアップル製品に影響を与えていることはよく知られている。作者の柳田氏は二〇一二年に刊行された、弘文とジョブズの三〇年にわたる交流を描いた書籍『ゼン(禅)・オブ・スティーブ・ジョブズ』の邦訳を担当し、気難しい性格で知られるジョブズが自らの婚礼の式師を弘文に依頼したことを知る。ただならぬ二人の結びつき。そこから一つの“問い”が浮かんだ。
 「乙川弘文とは何者だったのか」 
 それはこの一〇年の間、私たちの中に燻り続ける“もう一つの問い”と重なる。
 「スティーブ・ジョブズとは何者だったのか」
 現代社会に最も影響を与えた一人でありながら、彼の実像は未だ謎だ。特に一九八五年に自身が設立したアップル社を追放された後、九六年に復帰を遂げるまでの「空白の一〇年」。その間、何を思い、どう過ごしたのか。帰還後の快進撃は誰もが知るところだが、その間の内面的変化に“ミッシング・リンク”が存在する。
 本書は、その巨大な“空白”を埋める旅でもある。柳田氏は突き動かされるように、弘文(=ジョブズ)の謎に迫る探求の旅に出る。読者はその七年間に及ぶ旅路を追体験していく。
 まず、冒頭から度肝を抜かれる。「プロローグ」は、生前の弘文を知る人物の“一人語り”。しかも、内容は毀誉褒貶そのもの。ジョブズが讃仰した弘文とはさぞかし高潔な僧に違いないと思い、読み始めると、「つかみどころがない」「風来坊」「実は図太い」人物だという。「何十年も曹洞宗から離脱状態」とも。ある時は娘ほどの年齢の白人女性を連れ、ぬけぬけと「お腹に赤ん坊も」と挨拶したという。だが一方で、「出世欲もなければ世俗性もなくて」「金に興味などなかったし、めっぽう純粋な人」だという。比類なき高僧か、女好きの破戒僧か。読者は混沌の渦へ放り出される。
 ジョブズはそんな弘文を誰よりも慕った。二〇歳の時に禅堂で出会い、頻繁に訪ねた。不遇時代の「空白の一〇年」には、自身の邸宅に弘文を住まわせ、独り占めにしようとした。それほど師との問答を心から欲していたのだ。
 ジョブズもまた毀誉褒貶の激しい人物である。傍若無人な振る舞いの逸話に事欠かない。一方でアップル社復帰後、九七年のCEO就任から亡くなるまで年間報酬は僅か一ドル。金のために働かず、ミニマムなライフスタイルを貫いた。
 なぜ、ジョブズは弘文を求めたのか。他の禅僧ではなく、彼でなければならない理由とは何だったのか。柳田氏の旅は、弘文の背中を追えば追うほど混迷を深めていく。
 乙川弘文は一九三八年、新潟の古刹に生まれ、京都大学大学院で仏教学を専攻し、将来を嘱望される生真面目な僧だった。だが、布教での渡米後、生き方を反転。酒に溺れ、複数の女性と交際・結婚を繰り返す破戒僧となる。最期は、旅先での不可解な溺死で六四歳の生涯を閉じた。
 良寛の如き前半生と一休の如き後半生――。
 旅の終わり、ついに柳田氏は矛盾に満ちた乙川弘文の“二つの人生”の謎を解く視点を得る。
 ある僧が言う。
 「ジョブズをはじめとする欧米の人々の心は、逆に安らいだのではないでしょうか。これこそ、〈泥中の蓮〉です。蓮華は、汚れた泥の池からすっくと茎を伸ばし大輪の花を咲かせます。泥もまた大切な命の源なのです」
 弘文は願って地獄へ堕ちた。自らも泥の中で藻搔き、衆生と共に生きる道を選んだ。清高な僧として、過ち惑う者を高みから諭す聖人であろうとはしなかった。そんな僧は滅多にいない。
 ジョブズは「空白の一〇年」に弘文と最も親密な交流を持った。その後、所謂“現実歪曲フィールド”に代表されるように愚かにも自ら汚泥に身を投げ、混沌を生き、世の中を変える革新的製品という大輪の花を咲かせた。
 「日本エッセイスト・クラブ賞」は埋もれさせてはならない著作と、その書き手の存在を世間に知らせる役割を担ってきた。本賞が柳田氏の労作を多くの人へ届ける一助となることを願う。

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受賞の言葉

  笑わせてあげることだよ
    柳田由紀子

 本書、『宿無し弘文――スティーブ・ジョブズの禅僧』が世に出るまではなかなかの難産でした。いわく、
 「こんな無名の坊さんの話、誰が読むんだ?」
 それもそうかもと、私も思いました。
 ところが、刊行してみるとわずか二ヵ月で増刷、今では、四刷を重ねています。その上、「日本エッセイスト・クラブ賞」という光栄な贈り物までいただいて、何が起きているのかと書いた本人が驚いています。
 この伝記の主人公、故乙川弘文師は、無欲で名を残したいなどとはこれっぽちも思わなかった人ですから、今ごろは雲の上で頭をかいていることでしょう。

 乙川弘文は、人間の“自力”の傲慢や限界を知るが故に、天真宇宙に身をあずけて生きた僧侶でした。人は誰も懸命に生きている。しかし、いくら懸命に努めても所詮は凡夫でどうしようもなく無力だ――。弘文はそれを自覚していたからこそ、背後から押される人間を超えた力に身を委ねてはからいのない生を送りました。
 そのはからいのなさは図抜けたもので、たとえば、弘文の法話は間が長いことで有名なのですが、あまりの長さに弟子たちが師匠の顔を覗きこむと、話している本人が寝ていたという嘘のような本当の話が残っています。

 私自身は、弘文に逢ったことがありません。私が師のことを知った時、弘文はすでに鬼籍に入っていました。ただ、一本だけ法話を記録したビデオが残っています。ヨーロッパの山奥にある禅堂で撮影されたもので、時に弘文、五五歳。
 画面に映し出される弘文の語りにはまったく作為が見られず、天然、自然、あるがまま。適切な言葉を選び出そうと無心に首を傾げたり、虚空を見つめる仕草はまるで赤ん坊のようです。
 赤ん坊のような大人――。
 しかも、天真無垢な赤ん坊には邪気もありますが、この大人にはそれもない。私などがそれまでに逢ったことのない大人が、そこにいました。

 弘文の造作のない心は衆生無辺請願度、純情なまでに、「迷える人々は無数にいるが、すべての人を助けたいと願う」というお坊さんの誓いへと向かいます。そして、「助けて」と求める人がいれば、「はいはい」となんの見返りも期待せずに、本当に「はいはい」と欧米各地を訪ね歩くのでした。それはまるで、朝になれば花がひとりでに咲くのと同じように、大宇宙と一体化した自然な行為に、私には映りました。

 しかし、弘文が若い時からこうだったかといえば、そんなことはありません。ある法話では自身について、「頭でっかちで高慢ちきな青二才だった」と語っていますし、京都大学大学院時代(弘文は、お寺の三男坊~駒澤大学仏教学部~京大大学院文学研究科仏教学専攻~永平寺~二九歳で布教のために渡米)の日記には、『仏陀』と題されたただならぬ緊迫感が漂う頌歌が綴られています。

   こんなに身近に感じているのに。
   声も姿も お見せ下さらないのは。
   私をいとわしく思われるからですか。
   あらゆる罪を犯し、血みどろになった私のそばに。
   どうして、あなたはおいでになるのです。

 較べて、先のビデオの弘文の柔らかな無垢はなんということでしょう。いったい「血みどろになった私」が、五十路半ばの大の男になってどうしてああも天真でいられたのか。
 栗田勇氏は、『良寛さん』(新潮社とんぼの本)の中で、
 「生きて生身の人間が、心に血を流しながらも、なお、騰々として天真に遊び純粋でいられるのか。この矛盾を解こうと数知れぬ人々が闘ってきたのが、日本の精神史」
 と書きましたが、良寛さんと同郷、新潟出身の弘文さんもまた日本精神史の延長線に佇んだ人でした。 

 私には、弘文が残したなかでもとりわけ好きな言葉があります。

私たちを取り巻く感覚は、私たちの肉体の一部です。月、星、太陽、風、雨、
すべては、あなたの肉体の一部なのです。

 あれは、テレビでメジャーリーグの試合を見ていた一夜のことでした。屈指の名外野手が神業のようなファインプレーで球を捕えると、試合後のインタビューで以下のように応えました。
 「自分が捕ったんじゃないんです。観客の反応に背中を押されて動いたら、ひとりでに球がグローブに入ったんです」
 弘文と名選手、二人に通じるのは、“自力”に頼ることをとうにやめて、「取り巻く感覚」に委ねることで周囲と調和している点です。弘文の弟子のひとり、アップル創業者の故スティーブ・ジョブズは、iPhoneなど人類の在り方を変えた数々の製品を産みましたが、彼もまた、弘文との日々で「取り巻く感覚」にたゆたい、世界と調和することを習得したにちがいありません。
 私は、乙川弘文を綴った本書にも、自分の意思を超えた外部の圧倒的な力を感じています。『宿無し弘文』は、この賞によりさらに多くの読者に出逢うことになりました。著者としてこれ以上の喜びはありません。

 最後に――。
 プレゼンテーションの名人、スティーブ・ジョブズにならって“最後にひとつ”。
 ある時、弟子から、
 「人助けは何がベストだろう?」
 と訊かれた弘文は、こう答えたといいます。
 「笑わせてあげることだよ」

 このたびは、誠にありがとうございました。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

柳田由紀子(やなぎだ・ゆきこ)

 1963年東京生まれ。作家、ジャーナリスト。85年早稲田大学第一文学部演劇専攻卒業後、新潮社入社。月刊「03」「SINRA」「芸術新潮」の編集に携わる。98年、スタンフォード大学ほかでジャーナリズムを学ぶ。2001年、渡米。現在、アメリカ人の夫とロサンゼルス郊外に暮らす。著書に『二世兵士 激戦の記録――日系アメリカ人の第二次大戦』(新潮新書)、翻訳書に『ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ』(集英社インターナショナル)などがある。