第67回(2019年) 日本エッセイスト・クラブ賞

第67回(2019年)の日本エッセイスト・クラブ賞贈呈式は、9月7日、東京・内幸町の日本プレスセンタービル内、日本記者クラブ会見場で開催されました。贈呈式では、原田國男審査委員長が審査報告、遠藤利男クラブ会長から受賞者お二人に賞状と賞金が贈られ、続いて受賞者の小堀鷗一郎、ドリアン助川の両氏が受賞の喜びを語りました。1953年に創設されたクラブ賞の受賞者は、これで187人となります。



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審査報告

今日のテーマを追う  
審査委員長 高村 壽一  

一九五三年に第一回クラブ賞が授与されてから、六十七回を数えます。今回の審査経過をご報告します。スタート時の応募作品は、会員推薦五一点(前回三〇点)、出版社推薦八一点(一一一点)、個人自費出版など八点(三点)合計一四〇点(一四四点)でした。
 出版社推薦数の減少は「出版不況」下、刊行物厳選反映でしょうか。一方、会員推薦の五〇点台乗せは心強いことでした。重複作品などを除き一一七点をリストアップしました。審査委員は新しく三人を迎え計十一名で作業に入り、第一回審査で八五点を卓に載せました。第三回審議までは二人一組で評価作業を進め、「十連休」中が最盛期。各自精読に励み、第四回では二五点に、第五回では絞り込まれた六点を最終候補作品としました。
 これら六点を、出版社のアイウエオ順にご紹介しますと、ドリアン助川さん『線量計と奥の細道』幻戯書房、齋藤 禎さん『文士たちのアメリカ留学 1953―1963』書籍工房早山、津野海太郎さん『最後の読書』新潮社、古川雄嗣さん『大人の道徳 西洋近代思想を問い直す』東洋経済新報社、松本 創さん『軌道―福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い』同、小堀鷗一郎さん『死を生きた人びと 訪問診療医と355人の患者』みすず書房、でした。   
 最終段階では、前年と同じように二点を受賞作品としました。まずドリアン助川さんの作品が決まり、次に小堀さんの作品が多数票を集めました。どの作品にも推薦票が入り、活発な議論が行われ、選考水準の高い審議でした。  
 審査期間中に元号が変わったのはたまたまでしたが、総じて候補作品には、今日性の高いテーマが多かったのが印象的です。時代認識、環境破壊、原発問題、終末医療・介護、道徳・倫理などです。
 著者の年齢は比較的高く、ここで書き付けて置かねば、という意欲が伝わってまいりました。昨年の受賞二作品は女性の著作でしたが、今回の最終候補作品は男性陣が占めました。 

審査委員
委員長 髙村 壽一
委 員 太田 愛人  後藤 多聞  中丸 美繪  原田 國男  深尾 凱子  降幡 賢一  松本 仁一  村尾 清一  よしだみどり  吉野源三郎 


第67回 受賞作品

『線量計と奥の細道』
ドリアン助川 著
幻戯書房

第67回 受賞作品

『死を生きた人びと 訪問診療医と355人の患者』
小堀鷗一郎 著
みすず書房

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受賞作の紹介

「死に方」の選択
小堀鷗一郎著『死を生きた人びと
訪問診療医と355人の患者』
審査委員  後藤 多聞

本書は、四十年間食道がんを専門とする外科医として国の医療機関で勤務してきた著者が、定年後勤務した、歴史の新しい埼玉県の病院で訪問医として多くの死を看取った経験を踏まえての「多死社会」への提言である。 埼玉での在宅医療十三年、引退する医師から引き継いだ患者にはじまった「往診」の実績は、看取った患者三百五十五名中、在宅死の数は二百七十一名、在宅看取り率七十六・三%にのぼる。
 一方、日本全体の現状はどうか?第二章「在宅死のリアリテイー三五五名からのメッセージ」で明らかになる現実は、そう優しいものではない。厚労省の調査によれば、国民の六〇%以上が自宅療養を希望しているが、国民の八二・三%は医療機関で死亡、在宅は一二・六%にすぎない。著者の在宅看取り率七十六・三%、余りの違いに絶句する思いである。
 あとがきによれば、「事例と引用文で成り立つ、即ち事実のみで成立する書物を作ることを試みた。」という。そのうえで、訪問診療と一人ひとりの看取りという、マニュアルの無い、黒白のつかない世界での体験をまとめた。
 引用されている四〇余りの事例はいずれも深刻な内容である。筆者はそれらを「無名のまま世を去った人びとへの挽歌」と言う。その挽歌は淡々とした、抑制のきいた文章で綴られていて読みやすい。なお、「在宅療養」している患者を医師が訪問して「在宅医療」を行うことを一般に「訪問診療」と表現しているが、著者は本書では「往診」と言っている。高齢者になじみ深いという理由からであるという。

 本書から浮かび上がるのは、医療者の死への考え方である。著者も、一般医師が無意識に標榜する救命・根治・延命から外れた医療に向ける「冷たい視線」があることを指摘している。社会的問題としての「介護」、そして「死」。
 誰しも住み慣れた我が家で最期の時をすごしたいと思う。
 現実には、在宅看取りを望んでも、その願いかかなえられていない。しかもそこには高度に発達した医療のもとに生かされている孤独な高齢患者という実態がある。

 多死社会の問題は二〇二五問題という言葉で象徴されるであろう。八百万ともいわれる団塊の世代が後期高齢者となる二〇二五年、現在千七百万ほどの後期高齢者が約二千二百万に急増、国民の四分の一を占めるに至る。全人口の四人に一人が後期高齢者、うち四分の一~五分の一が要介護となる。現在年間百三十万の死亡者数も百七十万人に達するという予測もある。さらには孤立社会、現在五百万ともいわれる高齢者単身世帯は数年後には七百万と急増するという。
 著者は、訪問看護利用が多い自治体では、在宅死の割合が高いことを指摘している。それは、それぞれの患者の「死すべき時」への認識の違いを反映するものであろう。
 QOL、クオリティ・オブ・ライフという言葉がある。そこからクオリティ・オブ・デスという言葉を連想する。患者個人が最期を選ぶ、まさに「死を生きる人びと」の最期をどう過ごさせるのが死にゆく人にとっての幸せなのか?
 著者は、個々の患者の最後の希望にあわせていくオーダーメイド医療を提言し、二〇二五問題への最も効果的な対応策は、かかりつけ医、すなわちホームドクターを持つことであるという。
 かかりつけ医が病院医療を持ち込むのではなく、他職種と協働して在宅看取りをも念頭に置いたケアを提供すべきであるということ。
 ふりかえると難問山積みの日本の現状が見えてくる。最大の課題は、医者の医療に対する認識の落差、そしてそれ以上に大きいのが医師不足である。ОECDの統計では、医師の数は35ヵ国中、24位。しか大都市に偏在している。

 本書で指摘されているのは、死を逃れえない人間の最期のありよう、個としてだけでなく国家としても本格的に取り組むべき課題である。医師という職業の最終場面に差しかかっていると言う著者ではあるが、今しばしご自身の提言を、世に広く問い続けていただきたいと願う。

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受賞の言葉

名もなき死者のために
         小堀鷗一郎  

この受賞は私にとって大きな喜びである。本書は一言で表すならば市井の人びとの死の記録である。大きな業績を残すこともなく、誰からも顧みられず、場合によっては肉親からさえ顧みられることなくこの世を去って行った人びとにも語るべき豊かな人生があった。そして彼らの多くが、彼らなりに死を受け入れ、最期の時を過ごしたのである。この書はそのような人びとへの挽歌であり、また池内紀氏の言葉を借りるならば「勇気をもって死と向き合った人への敬意である」。この賞によって、彼ら一人一人に光が当てられたことを心から喜びたい。  正直なところ、私はエッセイを書いた覚えはなかった。今回の受賞が全くの想定外の事態であったことは、みすず書房から出版社推薦が出されていなかったことからも明らかであるが、私なりに日本エッセイスト・クラブ賞について情報収集を行ったところ、この賞が小説以外の広範囲の著作を対象にしていることが判明した。すなわち、本書は随筆、評論、伝記、研究、旅行記、いずれにも該当しない、言うなればノンフィクション部門の著作として受賞対象になった、という結論に至った。私は成人してから、もっぱらノンフィクション部門を読書の対象としてきた。私はこの先二度と本を書くつもりはないが、最初で最後の著作である本書が自分の最も好んだ文学のジャンルに於いて受賞対象になったことには、何とも言えない達成感がある。
 深甚なる謝意を表すために授賞式に出席していただいたのは次の各氏である(敬称略)。伊藤俊也:映画監督。私の診療活動に密着取材しオリジナルシナリオ「雷に打たれる前に」を完成させた。大野鞠子:成城学園小・中学校同期生。成城学園に多目的ホール「CasaMia」を建て、そこで行った私のレクチャー「終末期医療の現状」が成城大学同窓会講演会「ヒポクラテスに還る」、ラジオ深夜便「心に響く医の道を求めて」、NHKスペシャル「大往生~我が家で迎える最期~」につながった。下村幸子:NHKエグゼクティブ・プロデューサー。8か月間私の診療にディレクター兼カメラマンとして密着、NHKBS1スペシャル「在宅死 死に際の医療200日の記録」、NHKスペシャル「大往生~我が家で迎える最期~」、記録映画「人生をしまう時間(とき)」を製作した。新山賢治:元NHKシニア・エグゼクティブ・プロデューサー。ラジオ深夜便「心に響く医の道を求めて」を基にNHKBS1スペシャル「在宅死 死に際の医療200日の記録」をプロデュースした。瀬川ゆき:世田谷文学館学芸部長。執筆の初期から完成に至るまで、多くの助言を行った。堀越洋一:堀ノ内病院地域医療センター長として私と共に在宅医療に従事。多くの助言によって原稿完成の原動力となった。Wassermann Estrellita:元東京大学教養学部フランス科外国人教師。本書をフランス語に翻訳した。
 さらにこの賞を小尾俊人氏に捧げたい。みすず書房創業者の一人、故小尾俊人氏が亡母小堀杏奴の随筆集を出版するために我が家を訪れたのは、私が小学生のときであった。爾後約60数年小尾氏は私にとって年の離れた兄のような存在であった。映画(ジョン・フォード監督『駅馬車』)に連れて行ってもらったことを起点とすれば、終点は亡くなった二〇一一年の春、亡父が戦前パリで購入したデッサンの鑑定を依頼するため銀座の画廊に同行してもらったことであり、そして中間には、無名の画家であった亡父の遺作三〇〇点の世田谷美館への寄贈と亡母の遺品整理(『鷗外の遺産』幻戯書房、全三巻、二〇〇四~二〇〇六年)がある。60数年間にわたる交流の中で私の呼び名は幼少時は「鷗ちゃん」、成人後は「あんた」であった。「あんたねー、」という電話の呼びかけは叱責を受けることを予感させた。褒められることはまずなかった。その小尾さんが今回の受賞を何と言うのか、また自分に捧げられたことにどのような反応をするか、それは永遠に謎である。
 二年がかりで書き上げた原稿をみすず書房に持ち込んだのは、出版に値すると判断されるにせよされないにせよ、小尾俊人の後継者に委ねたいという思いがあったからに他ならない。原稿をめくりながら社長の守田省吾氏は私に問いかけた。「この原稿を書きながら貴方は何を考えていましたか」。この言葉は守田氏を通して問いかけられた小尾俊人氏の言葉として、私の心から消えることはない。それから10か月にわたり市田朝子氏は冷徹な科学者として、また誠意ある編集者として原稿を分析し批評した。私がそれに従って修正を重ねた結果がこの書である。
 本書を脱稿して既に1年半になるが、私の生活には以前と変わるところは全くない。死を認めようとしない患者、そして家族、社会。その中で死にゆく人の最後の望みを叶えるための戦いはほとんどが負け戦である。また戦士である私自身、医師としても、また一生物個体としても最終場面に差し掛かっている。「死を怖れず、死にあこがれず」日々を過ごしたい。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

1938年東京生まれ。東京大学医学部医学科卒業。医学博士。東京大学医学部付属病院第一外科・国立国際医療研究センターに外科医として約40年間勤務。定年退職後、埼玉県新座市の堀ノ内病院に赴任。在宅診療に携わり、355人の看取りにかかわる。うち271人が在宅看取り。現在、訪問診療医。母は小堀杏奴、祖父は森鷗外。  


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受賞作の紹介

とにかく人に会い、被災の悩みをともに悩んで
ドリアン助川著『線量計と奥の細道』
審査委員 松本 仁一

 芭蕉が歩いた「奥の細道」をたどる試みは、 これまで多くの人によってなされてきました。しかし、線量計をたずさえ、自転車をこぎながらたどったのは、ドリアンさんが初めてでしょう。
 奥の細道。自転車。線量計。この意表を突く「3点セット」にまんまと引っ張り込まれてしまったのは、私だけではなかったようです。5回にわたる選考会議を通じ、この本はほぼ満票の評価でした。
 線量計の旅といっても、機械的に放射線量を測って回るのではありません。
 道中、地元の知り合いやたまたま出会った人々と、食事をしたり、一杯やったり、泊めてもらったりしています。そうした人々が、原発事故というできごとにどう向き合おうとしているのか。その「人々の思い」に注目していくのです。
 栃木県那須市では、農園レストランを経営している知人夫婦を訪ねます。有機野菜の栽培や黒毛和牛の繁殖も手がけている方です。ドリアンさんはそこでおいしいおにぎりと味噌汁の朝食をご馳走になります。
 福島第一原発から80キロ離れている那須市でも、線量計が示す数値は0・52マイクロシーベルト。政府が定めた一般の線量限度の4倍以上になります。夫婦は和牛繁殖の仕事をやめざるを得ませんでした。
 ところが、廃業を決めた夫婦の牛小屋で前夜、子牛が生まれてしまいます。売れない子牛。しかし、生まれてしまったのだから育てるしかありません。夫婦は、何度も同じ言葉を繰り返します。
 「ああ、3月11日以前に戻ってくれないかなあ」  
 数値は、飯坂温泉では一般の線量限度の7倍以上に跳ね上がります。ドリアンさんは知人の家に泊めてもらい、家族と夜遅くまで語り合いました。「福島出身ということで縁談が破れた」という話が出たとき、高校生の娘さんは言い切ります。
 「そういうこという男は相手にしない」
 そうだそうだ、と盛り上がったのですが、あとでお父さんがそっと付け加えます。
 「福島から出て行くときがきたら、無理にもどってこなくていいから」
 地元の人々のこうした一言、こうした表情をすくい取る。それによって、本書は事故と人々のやりきれない関係を浮かび上がらせています。
 一方、原発事故は風評被害という問題を生み出しました。ドリアンさんはそれにもこだわります。
 飯坂温泉を出て宮城県に向かう途中、農家の奥さんたちが道路端に桃や梨を並べて売っていました。除染を繰り返し、努力してやっと安全基準をクリアした果実です。しかし買おうとする人は見当たらない。
 放射性物質を浴びた土地で作られた作物です。ふつうの消費者なら買わないな、と思ってしまうのです。
  ドリアンさんは悩みます。炎天下で作物を並べて一生懸命生きていこうとする人たちに対して、線量計で数値を測って回るなんてことをしていていいのだろうか。こんな旅、やめてしまったほうがいいのではないか。
 これはかなりこたえる悩みです。
 しかし、思い直して再びペダルをこぎ始めます。
 買おうとしない人がいるのは仕方がないことなのだ。風評被害を気にして口をつぐんでしまったら、あの災害は風化し、なかったことになってしまう。
 これは実害なんだ。「アンダーコントロール」なんかではない。事故はもう終わったことだとし、忘却させようとする動きがある。だとしたら旅を続けなければ――。
 問題を声高に論ずるのではない。善悪を一刀両断するのでもない。本書は、とにかく人に会い、人の悩みを一緒に悩むという姿勢で貫かれています。それこそが高い評価を得た理由と考えます。

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受賞の言葉

  感受の目から見えるもの
    ドリアン助川

ありがとうございます。まず、選考をして下さったみなさんに、お礼を申し上げたいと思います。  
 新宿ゴールデン街で受賞を告げましたところ、
「あの栄誉ある賞をお前が取るはずがない」
「錚々たる書き手ばかりがもらっている賞だよ。お前が取るはずがない」
「あれは文章がうまい人だけが取る賞だよ。お前が取るはずがない」と、「取るはずがない」の三連続攻撃を受けました。それほど栄誉ある、そして歴史もある「日本エッセイスト・クラブ賞」を受賞するという、夢のようなことが起きてしまったわけです。  
 私はもともと、賞はおろか、人にあまり誉められることもない日々を歩んできました。 これはもちろん、私に理由があります。若い頃の行動の指針は「突出」でした。人と同じことをやっていてはいけない。誰よりも能動的に行動して、他を引き離さなければいけない。そんなふうに考えていたのです。  
 たぶん、悔しかったのでしょうね。私は目が色弱でして、見分けのつかない色がいくつかあるそうです。実生活で困ったことはほとんどないのですが、大学生のとき、就職活動で愕然としました。目指していた業界、テレビ局や映画会社、出版社などが、すべて受験不可だったのです。  
 まだ打たれ弱かった頃ですから、企業には入らず、一人で生きて行くということを誓った夜明けには涙が出ました。  
 大学卒業後は、塾の先生や夜のお店のアルバイトをしながら、フリーの放送作家になりました。テレビやラジオの番組台本を書く仕事です。というと、面白そうに聞こえるかもしれませんけれど、業界のヒエラルキーで言えば最下層です。人間扱いされないような日々が続きました。  
 その頃の鬱積が、突出への思いにつながったのでしょう。その後、フリーの記者として東欧革命やカンボジアPKOに突っ込んでいったのも、世界の現状を憂うパンクバンドを結成し、モヒカンの頭を逆立てて叫ぶようになったのも、自分を痛めつけてきた何ものかに対し、見返してやりたいという気持ちがあったからだと思います。  
 突出を求めるあまり、三十代の後半からはニューヨークに居を構えまして、日米混成のバンドを結成し、マンハッタンでライブを繰り広げました。  
 しかし、そこまででした。ある日突然、柱が折れてしまったような気分になり、ニューヨークのアパートのなかに引きこもってしまったのです。結局、自分はなにもできなかった。突出はおろか、不器用な人間がつま先立ちで踊っていたに過ぎなかった。そのことがはっきりわかりました。  
 帰国したとき、私は四十歳になっていました。無職です。貯金もありません。日本をずいぶん離れていたので、人間関係も崩壊していました。多摩川の土手沿いにアパートを借りたので、できることと言えば、川原に佇んで、ただ茫然とするばかりです。  
 ぺんぺん草の生える川原から、他人の家々を見て思いました。もう自分は、一戸建てを手に入れることすらできないだろう。  
 ならば、どうするか。よし、ものを所有するという欲望をまず断ち切ろう。所有とは縁のない人生だとここで覚悟しよう。その代わり、ただでもできること。ひたすらに受動的であること。アンテナのようにこの世を感じるということだけは一生懸命にやろう。  
 私はその姿勢を「積極的感受」と呼んでいます。そして、これが良かったのです。所有を諦めるとは、敷地の壁を越えるがごとく、ものごとを区別する境界を越えていくことです。多摩川の四季は私と友達になり、世界はこれまでとは違った意味で、その扉を開けてくれました。  
 今回賞をいただきました『線量計と奥の細道』は、まさにその積極的感受を貫いた旅の記録です。震災の翌年、原発事故のその後の報道も減ってきまして、実際のところはどうなのだろう? という思いが胸のなかに溜まりました。ちょうど参考書を作ろうとして、『奥の細道』の現代語訳に勤しんでいるときでもありました。芭蕉が俳句を詠んだ土地がどれだけ被曝してしまったのか、その空間線量も知りたいと思いました。  
 ならば、自分の目で見るしかない。被災地に住んでいらっしゃるみなさんに会って声を聞くしかない。そう思ったのです。  
 五十歳の夏です。小さな折畳み自転車に乗って、とびとびに継いでいく旅でしたが、およそ二千キロを踏破しました。  
 栃木では、肉牛の繁殖業を廃業せざるを得なくなった農場主に会いました。「首を吊る農家が出てきますよ」という彼の言葉が今も耳に残ります。  
 福島では、虐待や育児放棄で親とは暮らせなくなった児童を預かる養護施設を訪れました。線量が高いために、夏でもエアコンは使えません。園長先生は、「ならばここを出ていけばいいというが、子供たちを抱えてどこに出ていけるというのか。私たちはここで暮らすしかないのです」とおっしゃいました。  
 一晩泊めていただいたある家庭では、高校生 の娘さんを相手に父親がこう話しました。 「大学で福島から出ていきなさい。無理に戻ってこなくていいから」  
 こうした言葉と人々の表情はたしかに文字を綴る動機となりました。しかし同時に、測った線量を公表すべきかどうか、その迷いにもつながり、私は長い間、この旅の記録を公表するかどうか逡巡したのです。  
 でも、現政権のやり方が支配的になるにつれ、人々はいつのまにか押し黙ってしまいました。原発再稼働は当たり前になり、オリンピックに向けた喧噪のなかで、いまだ仮設住宅で暮らすみなさんの存在さえかき消されようとしています。  
 私は色弱ですが、感受すると決めたこの目には、圧迫のなかでじっと堪えているみなさんの姿が見えます。自分はいったいどちら側に立つ身なのか。そう問うたとき、この記録を出すべきだと思いました。そして縁あって幻戯書房の編集者、田口博さんと出会い、彼の努力もあってこの本は世に出ました。  
 受賞をきっかけに、多くのみなさんに読んでいただきたい。今はただそれを願っております。ありがとうございました。    

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1962年、東京生まれの神戸育ち。作家、朗読家。早稲田大学第一文学部東洋哲学科卒。日本ペンクラブ理事。長野パラリンピック大会歌『旅立ちの時』作詞者。放送作家を経て1990年、バンド「叫ぶ詩人の会」を結成。ラジオ深夜放送のパーソナリティとしても活躍。若者たちの苦悩を受け止め、放送文化基金賞を得る。同バンド解散後、2000年からニューヨークに三年間滞在し、日米混成バンドでライブを繰り広げる。帰国後は明川哲也の第二筆名も交え、本格的に執筆を開始。著書多数。小説『あん』は河瀬直美監督により映画化され、2015年カンヌ国際映画祭のオープニングフィルムとなる。また小説そのものもフランス、イギリス、ドイツ、イタリア、タイ、ベトナムなどで出版され、2017年にはフランスの「DOMITYS文学賞」と「読者による文庫本大賞(Le Prix des Lecteurs du Livre de Poche」の二冠を得る。